「結婚」と一致するもの
2014年11月4日
お客様(東北地方)と東北三省女性会員K-1102番さんの結婚式。
お昼に結婚披露宴を挙げる為、慌しく始まる朝の様子です。
お客様のご都合でお二人の写真は控えさせて頂きます。
花嫁さんのお迎えに使う車です。
爆竹でお迎えする為に敷き詰めている所です。
披露宴2時間前の会場の配置点検です。
料理やケーキ・シャンパンタワーなど飾り付けが始まります。
お客様に少しでも満足戴けるよう心がけております。
2014年11月7日
ハルピン空港
7:40搭乗ゲートよりバスで駐機場に向う車中より前方に見える南方
航空CZ615便で帰国です。
ハルピン8:05離陸の11:15新潟空港に着陸予定です。
2014年10月21日
お客様(東海地方)とハルピン女性会員K-4104番さんの結婚式です。
昨日に結婚届を済ませて今日はご親戚様などにお披露目です。
お二人は長男 長女で共に一人っ子の家庭で育った新郎新婦さんで
す。
指輪交換の新郎様より新婦さんに!
ご両親にご挨拶
新婦のお父様と固い握手
感激で抱き合う新婦さんとお母様
お二人に
愛の誓いです。
先週お客様と結婚式を挙げた奥様もお祝いにかけつけて下さいました。
親族様と記念撮影
新婦さんのご両親様
司会者さんのご紹介
お色直しで花嫁さんがチャイナードレス(紅い)でお披露目です。
花嫁さんと一緒に(式の始まる前に写したものです)
これは始まる前にリボンを付けて貰うところをご紹介します。
おめでたい席で皆様から手伝ってもらい感無量です。
披露宴も終わり通河県経由でハルピンに帰る途中の写真です。
終戦頃は荒れ果てた湿原の原野だったそうです。
おばちゃんよりお聞きしました。
松花江大橋を渡れば通河に入ります。
冬将軍が訪れる前に最後の農作業に明け暮れる農家の枯れたトウモ
ロコシの野焼き風景です。
日没前の夕日が松花江に沈む満州的夕暮
2014年10月21日
新郎新婦の結婚アルバム撮影の空き時間を利用して日本人墓地を尋ね
てみました。
終戦時満州開拓団が集団自決した歴史的悲劇がこの地、方正に多くの
日本人の方々が眠っています。
晴れてはいるが凍りつく寒さの中を車で目的地へ
開拓時代は一面の原野が続いたようです。
中日友好園林は方正県の東6km先にある吉利村から,南に2km程
行ったところに唯一の中国政府公設の「日本人墓地」が山裾の林に眠っ
ています。
(正面の林に)
林の奥にお墓があります。
日本人墓地は2基の大型コンクリート」の円柱筒状で頂点は丸い形で
中には遺骨を納めた部屋があり多くの方々が眠っています。
右は「方正地区日本人墓地」左側は麻山集団自決の「麻山日本人公墓」
です。
2014年10月21日現在のお墓の全容です。
隣に在留孤児が建てた「中国養父母公墓」、があります。
裏側に氏名記載さています。
近くに戦後、現地の稲作指導に訪れて米の収穫量の増産に尽くし現地の
方々より神の様に尊敬された岩手県沢内村出身の藤原長作の「記念碑」
と記念館もある。
右側の建屋(お墓の裏側より撮影)
尖閣湾問題で北京より4人の反日運動家により正面の犠牲者が刻まれ
ている碑に紅いペンキで塗り潰された事件で現在の碑は取り除かれて
いる。
陵墓の奥中央に白い石碑は現在(撤去)ありません。
以前の姿です。(現在の写真ではありません)
砲台山に1945年(昭和20年)の冬、日本人の遺体がこの丘に山積みの
まま放置されていたようです。
秋に集団自決した日本人開拓団の悲劇です。
砲台山
ソ連の侵攻により満州開拓団が非難の為ハルビン西方約180キロ(ジ
ャムスとハルビンの中間)の方正(ほうせい)まで辿り着きハルビン
を前にして、寒さと飢え、病気等で約5000人が犠牲になり、3日3晩
死体を焼き砲台山の麓に埋めたと伝えられています。
砲台山の裾野に眠てる。
日本人公墓が作られるきっかけは1963年に荒れ地を開拓している最中
に風雨にさらされ野ざらしになった白骨の山を残留婦人の松田ちゑさ
ん(91年帰国)が見つけ「埋葬したい」と地元政府に願い出た話が中
央政府まで届き、周恩来首相の承認を受け地元の方正県政府が建立。
当時、日中国交回復前の中国は貧困時代で日本人の墓を建立する為、
ハルビンで石を採集し、道路もない所を松花江の増水を待ち、方正ま
で船で運び、丘の上に引き上げ、多くの生命が失われた地に建立した
そうです。
現在も当時の家屋(築、約90年前)で生活している農民。
砲台山の麓(戦前築)農家
1945年8月15日に日本が敗戦、直前の8月9日、旧ソ連は満州国境を越え 参戦した。 方正をはじめ、北部満洲各地は日本人開拓団の悲劇が繰り広げられ、 ある村はソ連の奇襲で全滅し、又、ある村は集団自決が行われ、多く の開拓団は終戦も知らされず、成人男性は出兵し不在のまま、老人や 婦女子を中心にソ連軍からの逃れてこの地に辿り着くが大河(松花江) に行く手を阻まれて多くの人が激流に飲み込まれ犠牲者が続出したそ うです。 小石を投げても割れない氷 方正は中日友好园林のある「吉興村に方正地区開拓団」の本部があり 松花江添いの伊漢通郷など方正県各地に開拓団があったほか、佳木斯 チャムスや樺川・樺南・七台河など北部満洲の各地から哈爾浜に向か う交通の要衝で終戦時の開拓団引き上げの地で日本人孤児(残留日本 人孤児)が多く残され地域で、せめて子供の命だけは守りたい願いが 多くの中国人が親代わりとなって引き取ってくれたようです。 多くの日本人孤児は乳幼児で物心の付く前から中国人として育てられ た人が殆どで、終戦の混乱から青年期以降の多くの方々も残留婦人と してこの地で暮し、勤勉に働き、誠実で現地の人々からは好意的に思 われていたようです。 日本人残留孤児の問題については,このような背景があることも忘れ てはならないと思います。 残留孤児を育ててくれた(養父母の墓) 冷戦下の中国方正県の人々への農業育成や技術伝授による日本人への 感謝が,このような形で実現されたと思っております。 在に至ります。
その後,周恩来宰相と田中角栄首相により,日中国交回復が開かれ現
(日本人墓地)が現代に伝えています。
お墓の建立に尽くして戴いた方正県の地方官及び中央政府の毛沢東主席
と周恩来宰相。
永眠を心から祈ります。
合唱
2014年10月20日
昨日お越し頂いたお客様とハルピン女性会員さんの民生局で結婚登記
の申請に同行しました。
登記も受理し結婚手帳を頂き花嫁さんの故郷に出発です。
民生局前で記念の一枚です。
今日も12組前後のご夫婦が申請に訪れていました。
ベトナム女性と中国人男性が4組、日本人男性と中国女性7組、モンゴ
ル女性とハルピン男性1組が同じ部屋で順番を待っていました。
日本の方は全て地方の方で紹介者は現地中国人の方々が手伝っており
中には顔見知りの女性や男性仲介者の話を聞く事ができました。
最近の日本の紹介業者(都市部)の減少が多い此処に申請に来ている
人は殆ど地方の紹介業者のお客さんと話しておりました。
すっかり以前のような結婚はハルピン女性の変化により減少し、良き
伴侶を求めて平穏に暮らし、子孫繁栄を築き互いに歩む人生を追い求
めて入会する女性会員が増えています。
多くの悪評で信用を失った時代はもう終わりを告げ、新しい変革期が
訪れています。
若い中国人女性が一番集中している所はやはり黒龍江省郊外が多いと
思います。
何故なら広大な土地に携る農家が多いこと、出産制限もゆるく子供が
多い、都市部と違い雇用条件が少ない等で結婚願望も強いし、後に説
明しますが大戦で残留孤児が多く出た土地柄が後の中国国際結婚に発
展して行く過去の歴史的問題があったと思います。
高速道を東に
方正PAに着きました。
お部屋で寛ぐ新婚さん
農村(満州)の夕暮です。
気温はマイナスです。
2014年10月17日
中国東北地方に位置する、北朝鮮やロシアにも接する吉林省が今回
の目的地です。
日本よりツアーに混じって訪れている方も時には見受けられますが
単独で車を走らせ現地に来る日本人は珍しいようです。
過っては延吉市も国際結婚で多くの日本人が訪れた時期がありまし
たが現在は少ないようです。
ツアーと違い異国で自由気ままの時間帯を友と行動できる幸せは計
り知れませんね。
宿泊したホテル前です。
20年来の家族同様のご夫妻さんと。
北朝鮮寄りのエリアは、延辺朝鮮族自治州であり、街には中国語と
朝鮮(韓)語が選り乱れた独特な文化を持つ魅力に溢れる地域です。
延吉を出発し北朝鮮に接する図們国境を目指して走る途中にシャッ
ターを切りました。
着きました
豆満江は朝鮮半島側の呼び名、中国では図們江の呼び名で呼ばれる
川です。
図門江第1桟橋は使われず寂れており下流に車を走らせました。
河の中央を国境界線で堤防には有刺鉄線が張られている。
川を挟んで私の背後が北朝鮮領土で兵士の歩哨塔が小さく見える。
境界線より一歩入れば容赦なく銃弾が打ち込まれる現実的国境が実感
できます。
何か寂しいような北の風景ですね。
![]()
お昼を少しまわった12時49分に写した北朝鮮国境です。
片田舎の途中で遅い昼飯を注文した朝鮮風の料理は油が多くて食べ
るのに閉口しました。
琿春の片田舎で化学肥料を使わない苹果(リンゴ)栽培の村で夜食
用に1箱買いました。
図們江と山に囲まれた寒村です。
幹の小さい樹に多く実を付けており生産重視で日本とは大違いの栽
培方法のようです。
枝に紅い苹果が実を付けている
リンゴ公園の椅子でひと時を寛ぐ
山間の何も無い寂しいところです。
露中朝国境にはシベリヤ虎が生息しており山裾にはこんな看板が至る
所に立っていました。
現実的に自然の野生動物が多いようです。
山に挟まれた図們江の国境線です。
紅葉シーズンも終わりに近づいた国境地帯をゆっくりと図們江下流
に。
朝鮮の山並です。
鉄条網(有刺鉄線)的国境線
北朝鮮国境警備棟(白い)が到る所に見えます。
1km間隔で兵士の歩哨棟が建っているようです。
よく見て下さい。
河の向こうが北朝鮮
間もなく日没です。
夕暮の図們江を挟んで北朝鮮の鉄橋が見えます。
独裁国家と見た目は分かりません。
豆満江を挟んで北朝鮮の山々が綺麗に見えます。
日没です。
暮れてゆく朝鮮の山並と図們江
今晩は琿春に泊り明日は防川ではロシアと北朝鮮三国境と豆満江最大
の橋より物資輸送が北朝鮮に渡る軍事的諸点等、観る予定です。
ホテルに帰る途中の朝鮮族の村です。
2014年10月14日
お客様のご要望で案内いたしました。
戦前日本の関東軍(満州国)は東北三省を占領し、この地で人体実
験を繰り返して細菌兵器を製造して中国戦線に使用した唯一の実験
場で太平洋戦争の敗戦時ロシア軍の参戦で破壊し慌てて逃げたので
本部跡や実験各場所が残り世に知れ渡る悪名高い731部隊です。
当時は敷地内に鉄道や飛行場も隣接し、兵舎や医師団全てが揃って
おり現在も人体焼却炉の煙突の一部も現存してあります。
各地より訪れる人々が絶えない中、日本人であるが結い静かに観覧
する悲しさにはとてもやりきれない思いでいっぱいでした。
中国国際結婚もさかのぼれば日本より集団疎開で開拓団(満州)が
敗戦の悲劇を味わい逃れる途中に自決で生き残った子供達を育てた
中国人の方々、日中国交回復後の残留孤児が帰国後に始まった事が
紀元です。
後日、哈尔滨(ハルピン)の国際結婚が盛んになった理由や悪評が
でてきたいわれ等、ホームページ内できちんと記事にするつもりで
す。
本部兵舎の前です。
本部の正面跡地です。
後世に残る歴史の一部分です。
2014年9月17日
上海は東の玄関口に位置する中国第2の都市です。
昨日の午後(14:25)便で桂林から上海に1泊して、今朝6時にホテル
を出て空港の国際線搭乗手続きカウンター前に着きました。
7時を過ぎると出国ラッシュで混雑するロービーです。
新潟行きの搭乗券です
搭乗ゲート前です。
ゲートを背に写して頂きました。
中国東方航空MU295便で帰国です。
時間通りの搭乗でゲートを離れ助走開始しです。
整備士に見送られ出発します。
滑走路手前で離着陸便のラッシュで待つこと40分。
ようやく離陸です。
浦東の海を真下に見て一路、新潟へ機首を上げて行くA320です。
日本海を北上し能登半島上空より機首を下げ始めました。
佐渡を左に見て、間もなく新潟も見えてきました。
新潟上空にさしかかりました。
中央に流れるのは信濃川を挟んで駅南と古町通りに繁栄しています。
阿賀野川を旋回して高度を下げて行きます。
着陸態勢です。 我が故郷、新潟の空気や緑が綺麗でホットします。 今回の訪中は桂林~ハルピン~桂林と中国の南と北を国際結婚やお見合いのお客様とご一緒させて頂きました。 本当にありがとうございました。 愛福日中交流会を今後とも宜しくお願いいたします。
10月の中国国際結婚式をご紹介致します。
ご期待ください。
2014年9月11日
婚約者の生家にご両親を訪ねた様子です。
お父様が笑顔で出迎え、案内して頂きお礼のご挨拶や今後の結婚式等
説明し、両親より快く祝福を受け一緒に和やかにひと時を過す事がで
きました。
平屋の住宅が一般的ですが近年は集合住宅(マンション)も増えて
きている中国北方地方です。
高床式で下には暖房が通り北国特有の住居形式です。
ハルピンに帰る前の記念写真です。
見渡す限りの収穫前の穀倉地帯、まさに北の台地 其のものです。
夕方の中央大街です。
革命記念公園のカップルさん。
夕日が沈む松花江
聖ソフイア大教会
薄暗い聖ソフイア大教会に明かりが灯ったハルピンの秋です。
北朝鮮料理
本国政府高官の選び抜かれた(美人)娘さんが政府の経営で資金集
めに真面目に勤務しているお店に朝鮮料理を頂きました。
私たちはお客様に対して食事の面でも十分のおもてなしを心がけて
おります。
安心してお任せください。
良く耳にしますが他者ではろくな食事を価ず済ませてしまうそうです。
さすが北朝鮮ですね。
